2026年2月

主語がデカい!

第1章 オープニング:ゆっくりしていってね 収録ブースは、だいたいいつもと同じ匂いがした。吸音材の埃と、冷めたコーヒーと、ケーブルのゴム。ここは現実だ、と鼻が言う。現実なら安心だ、と脳が続ける。 安心は、危ない。 霊夢は椅子に座り、口元のマイクを見た。マイクの金網は小さな宇宙みたいに網目が細かい。そこへ向けて声を出すだけで、世界のどこかの誰かが「見た」ことになる。最近は、声だけじゃない。字幕が勝手 […]

ギャラクティック・カーシニゼーション

SF

カーシニゼーション (Carcinization) あらゆる生命体が、進化の過程で必然的にカニ型へと収束していく現象。地球では甲殻類に限定された収束進化として知られていたが、宇宙規模では全生命体――液体、気体、機械、高次元存在すら――に適用される普遍的法則であることが判明した。 これは病気ではない。感染症でもない。これは、重力や熱力学と同等の、宇宙の根本法則である。 第0章 人類最終報告書 銀河連 […]

カーシニゼーション シンギュラリティ(Carcinization Singularity)

第1章 脚本会議、全面カニ化 「なんでカニ映画の脚本しか持ってこないんだよ!」 倉持鷹也の声が、ガラス張りの会議室に跳ね返った。渋谷の十七階。窓の外には、冬の霞んだ街と、遠くの工事用クレーン。海とは無縁の高さだ。 それでも、テーブルの上に並んだ紙束は、潮の匂いをまとっている気がした。 『恋するカニのメロドラマ』『カニ戦線、北緯三十八度』『宇宙船カニ号、帰還せよ』『カニ探偵と失われた真珠』『カニと祈 […]

腸が紡いだ知性

SF

第1章 途絶えた声 藤村真理は、遠心分離機の回転音が少しだけ高くなる瞬間が好きだった。一定のノイズの中に、目に見えない境界が生まれる。沈むものと、残るもの。今日もまた、透明なチューブの中で世界が二層に分かれていく。 培養室の壁に貼られたスケジュールには、赤字で「PNAS 1月号」と書き添えてある。腸脳相関の新しい論文。真理にとっては「ようやくここまで来た」という感覚だったし、同時に、何かが遅すぎる […]

鉄の葬列

SF

第1章 鉄の沈黙 深夜の国立天文台は、しんと静まっていた。 三鷹キャンパスの研究棟に残っている人間は、もう星野鉄哉しかいないだろう。廊下の蛍光灯は節電モードに切り替わり、半分が消えている。その薄暗い光が、半開きのドアの隙間から星野の背中をかすかに照らしていた。 モニターの青白い光だけが、彼の顔を浮かび上がらせる。 画面には恒星進化の数値シミュレーションが走っていた。中性子星の連星系から放出される物 […]

始皇帝「不老不死」研究の真相 ― 宦官癌移植計画を追う

第1章|がん患者は、なぜアルツハイマー病になりにくいのか 医学の世界には、ときおり説明のつかない統計が現れる。 そのひとつが、「がん」と「アルツハイマー病」の奇妙な逆相関である。複数の疫学研究により、がんを経験した人は、そうでない人に比べてアルツハイマー病(以下AD)を発症する確率が有意に低いことが報告されてきた。 これは単なる寿命の問題ではない。がん患者は、むしろ身体的には過酷な治療を受け、全身 […]

最後のキーボード

SF

第1章 百億 「百億」 競売人の声が落ちると、場内に短い沈黙が生まれた。誰も拍手をしない。歓声もない。ただ、値が確定したという事実だけが、静かに空気を押し広げていく。 男は深く息を吐いた。 百億。初期型 Happy Hacking Keyboard、限定五百台の PD-KB01 に支払った金額だ。 男自身、その数字に実感はなかった。ただ、これ以上つり上げる者が現れなかったことに、奇妙な満足を覚えて […]

史上最大の召喚

SF

第0章 夜空のサイズ その夜、星が増えたわけではなかった。 むしろ、星は減った。正確には――星と星の「距離」が失われた。 異世界の夜空は、もともと静かな天蓋だった。魔法式で測定可能な恒星、暦に刻まれた月、神話と一致する星座。すべてが「理解できる大きさ」に収まっていた。 だがその晩、空は奥行きをやめた。 星々は遠くにあるはずなのに、近づいてこない。近づかないのに、圧力だけが増していく。まるで夜空その […]